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11月, 2025の投稿を表示しています

ノイズと、創造性

最近、YouTubeなどでデザイナーズマンションを内見する動画を目にすることが増えました。 建築の専門知識がなくても、誰もがデザインを身近に感じられる点では面白い現象です。 けれど一方で、そうした動画が「ネタ」として消費され、クリエイターの挑戦を揶揄するような空気を生んでいることに、少し怖さも感じます。 上記の内見動画もそうですが、「快適さ」や「使いやすさ」だけを価値の基準とする社会の流れがあるように思います。 それ自体は悪いことではありませんが、便利さが正義になりすぎると、創造の余白が失われていくのではないかなと思えてしまいます。 私は、創造性の余白は、人が感じる違和感や居心地の悪さにもあって、そういう感覚もノイズではあるけれど、大事なものだと考えています。 なので、社会が「ノイズのない状態」へと進んでいるのではないかと少し不安に、、、 ノイズが消える社会の行き着く先 もし、あらゆるノイズが排除されていけば、世界はどんどん滑らかで、安全で、整っていきます。 けれどその先にあるのは、驚きや感動が起こらない“静かな絶望”かもしれません。 リスクを取る人が減り、挑戦が笑われ、新しい表現が生まれにくくなる。 そして、人々の想像力は徐々に退化していく。 社会全体が「正解の形」をしていながら、どこか息苦しく、何かが足りない――そんな未来がぼんやりと見えてきます。 この流れは、生成AIの広がりにも重なります。 AIは圧倒的なスピードで「整った正解」をつくります。 その精度と便利さは素晴らしいものですが、同時に「間」や「ためらい」といった文化的な美しさを削り取ってしまう。 日本の「粋」や「風情」は、言葉にしない余韻や、あえて外す間合いに宿っていました。 AIが整えすぎるほど、そうした「ゆらぎ」が消えていく。 では、人間はどうすればいいのでしょうか。 おそらく、AIを「正解を出す道具」ではなく、自分の感覚を確かめるための「鏡」として使うことが鍵。 AIが整えたものを見て、「自分ならどこを崩すか」を選ぶ。 それこそが、これからの創造のかたちなのかもしれません。 クリエイティブとは、ノイズを設計すること 本来、デザインや建築、文章などの表現行為は、「秩序とノイズの配分」だと言えます。 完全に整うと退屈で、崩しすぎると伝わらない。 その“ちょうどよいズレ”を見つけるのが、作者の仕事です。...

「モモ」とファシリテーション

先日、ご依頼をいただき、自治体関係職員向けにファシリテーション研修を実施しました。 これまでの経験を活かしながら構成しましたが、少し盛り込みすぎたかもしれません。 それでも、自分自身がファシリテーションについてじっくり考える貴重な時間になりました。 最近、息子の寝かしつけの時間に、ミヒャエル・エンデ著『モモ』を読み聞かせしています。 (理解出来ているかどうかはわかりません。笑) 言わずと知れた名作ですが、改めて読むと、ファシリテーションに通じる要素が多くあることに気づかされます。 主人公・モモの特技は「傾聴」です。 モモは、人の声に耳を傾けます。 そして、彼女が何かを“する”わけでもないのに、話した人たちは次第に自分の中で答えを見つけ、問題が解決していきます。 まさにファシリテーターの姿そのものです。 ただし、この傾聴には時間がかかります。 (しばしばファシリテーションやワークショップのデメリットで言われる点と重なります。) モモの世界では、その「時間」を奪う存在として“時間泥棒”が登場します。 人が効率や成果を求めすぎるあまり、大切な対話の時間を手放していく。 この構図は、現代の私たちにも重なります。 ファシリテーションとは、意見を引き出し、整理し、まとめていく技術であると同時に、 “人が考える時間”を支える営みでもあるのだと思います。 モモのように相手の声に耳を傾けること。 そして、その沈黙を恐れず、時間を共にすること。 それが本来のファシリテーターの姿なのかもしれません。