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侮蔑される側になって、「謝ってほしい」が少しわかった

先日、Xのタイムラインに、とあるnoteの記事が流れてきました。 内容は、私もよく聴いているポッドキャストにおいて、私の出身地でもある山陰について侮蔑的とも取れる話がされていた、というもの。 私も山陰出身です。 記事を読みながら、 「ああ、これは嫌だよなぁ」 と、めちゃくちゃ気持ちがわかりました。 気になったので、実際に当該コンテンツも視聴。 前後の文脈も含めて聴いてみると、普段からそのポッドキャストを聴いている私としては、「まあ、この二人ならこういうやり取りはするだろうなぁ」と思うところもありました。 もちろん、いい気持ちはしません。 ただ、普段から二人のやり取りを知っているから、まだ文脈を補って受け取ることができる。 これを初めて聴いた人や、山陰に思い入れのある人が聞けば、そりゃ怒るだろうなぁとも思いました。 そして、自分でも少し意外な感情が湧いてきました。 「ちゃんと謝ってほしいなぁ」 という気持ちです。 それも、SNSなどに掲載される定型文のような謝罪ではなく、できれば当人たちの声で。 何を考えてあの発言をしたのか。そして、受け取った人が嫌な思いをしたことについて、どう感じているのか。 それを本人たちの言葉で聞きたいと思いました。 SNSで誰かが炎上すると、 「謝れ」 というコメントがたくさん並ぶことがあります。 これまでの私は、それを見るたびに、そこまで謝罪を求めるものなのだろうかと思うことがありました。 もちろん、炎上に乗っかって反射的に「謝れ」と言っている人もいるでしょう。 でも今回、ほんの少しだけ侮蔑される側に回ってみて、その感情がわかった気がしました。 たぶん、欲しいのは「謝罪」という行為そのものだけではない。 自分たちが傷ついたことを、相手にも認識してほしい。 「そんなつもりではなかった」で終わるのではなく、自分たちがどう受け取ったのか、その存在を一度こちら側から見てほしい。 その確認として、「謝ってほしい」という感情が生まれることもあるのかもしれません。 今回の出来事で、誰かに強く謝罪を求める人の気持ちがすべてわかったとは思いません。 ただ、 「謝ってほしいって、こういう気持ちから出てくることもあるのか」 と、ほんの少しだけわかりました。 侮蔑される側になって、初めて気づいた感情でした。

「バトルしようよ」が苦痛だった

息子からよく言われます。 「バトルしようよ」 正直に言うと、これがちょっと苦痛でした。 ブロックでポケモンのようなモンスターを作り、それを戦わせる遊びです。 もちろん、息子と遊ぶこと自体が嫌なわけではありません。 問題は、ルールです。 というか、ルールがない。 「攻撃!」 「バリアあるから効かない!」 すべてが息子の裁量で決まります。 こちらがどんな攻撃をしても、息子が「効かない」と言えば効かない。 向こうが繰り出した必殺技は、だいたいものすごく強い。 何も面白くない。 これはいかん。 せめて、私も楽しめるくらいのゲーム性を持たせられないものか。 そこで、AIに相談してみることにしました。 着想にしたのは、私も子どもの頃に遊んだ「バトル鉛筆」です。 鉛筆を転がして、出た面によって相手にダメージを与えたり、特殊な効果を発動したりする。 運の要素があるから、大人と子どもでも勝負が成立します。 これをブロックモンスターのバトルに応用してみることにしました。 まず、モンスターを「攻撃型」「バランス型」「防御型」の3種類に分類。 タイプの違いで、サイコロの出目によって与えられるダメージが違ったり、ライフポイントが違ったり。 それぞれに特徴を持たせ、強すぎるタイプが生まれないようにゲームバランスを調整しました。 さらに、属性と相性の概念も導入。 (ただ、ここはまだ少し難しく、相性によって始まる前から勝負が決まってしまうこともあり、現在も調整中です。) 最初は1対1で戦わせていましたが、これだと相性次第ですぐに決着がついてしまう。 そこで、複数のモンスターを用意して戦うルールに変更しました。 「攻撃型」「バランス型」「防御型」は、それぞれ1体ずつしか使えない。 つまり、最大3対3。 誰を先に出すのか。相手を見て、次にどのモンスターを出すのか。 少しずつ考える余地も生まれてきました。 そして何より大きかったのが、 妻でも遊べるようになったこと。 これまでは息子の脳内にしかルールブックが存在しなかったので、第三者が参加するにはなかなかハードルの高い遊びでした。 でも、ルールをつくったことで、みんなが同じ条件で遊べるようになりました。 AIを使ってみると、こんなゲームまで一緒につくれるのかと感心しました。 息子の想像力だけで遊ぶ世界も、もちろん面白い。 でも、そこに少しだけルールを加え...

「整う」がわからない

仕事の関係もあって、最近サウナに挑戦しています。 サウナに入り、水風呂に入り、休憩する。 調べたところによると、これを何度か繰り返すことで、いわゆる「整う」という状態になるらしいので、やってみています。 でも、いまいち「整う」がわからない。 そもそも「整う」とは、どんな状態なのか。 AIに聞いてみたところ、こんな感覚があるそうです。 ・身体の力が抜ける。 ・頭がぼんやりするのに、不思議とスッキリしている。 ・呼吸が自然にゆっくりになる。 ・椅子に座っているだけなのに妙に気持ちいい。 ・身体がふわっと浮くような感覚がある。 ・「しばらくここにいたい」と感じる。 なるほど。 一つずつ自分の身体と照らし合わせてみます。 「身体の力が抜ける」 これは、あります。でも、それを「気持ちいい」とは思えていません。 「呼吸が自然にゆっくりになる」 言われてみれば、確かにそうなっています。 「身体がふわっと浮くような感覚がある」 これも、あります。 ・・・多分、整っている。 どうやら私は、サウナーの皆さんが「整う」と表現している身体変化の一部を、すでに経験しているようでした。 ただ、その感覚にポジティブな意味づけができていない。 身体の力が抜けて、少しふわっとする。 サウナーなら、 「きた。整った。」 となるのでしょうが、私は、 「うーん、まぁ、言われれば。」 くらいに受け取っている。 同じ身体変化でも、それをどう認識するかによって、体験はずいぶん変わるものです。 もしかすると「整う」とは、身体の状態だけではなく、その状態を「気持ちいい」と認識できるところまで含めた言葉なのかもしれません。 経験を重ねれば、その感覚も変わってくるのでしょうか。 ちなみに、今のところ間違いなく「気持ちいい」と思えている瞬間があります。 脱衣所の扇風機。 風呂から上がり、身体を拭いて、扇風機の前に立つ。 これは文句なしに気持ちいい。 整ったかどうかはわかりませんが、扇風機はわかる。 果たして私は、これから「整える」ようになるのでしょうか。

良い問いは、登りやすい階段のように

先日、ファシリテーション講座で講師を務めました。 その中で、「良い問いとは何か」という話をしました。 限られた時間だったこともあり、「どんな問いが良いか」についてはお伝えできましたが、「良い問いにどうやってたどり着くのか」までは話せませんでした。 そんなことを考えていた矢先、よく聴いているポッドキャストで印象的な話がありました。 スピーカーは講演経験も豊富な方。 講演後の質疑応答について、「準備された本質的な質問ばかりだと、実は話しづらい」という趣旨の話をされていました。 なるほど、と思いました。 質問する側としては、せっかくの機会だから良い質問をしたい。できれば、相手の本質に迫るようなことを聞きたい。 でも、いきなり本質的なことを聞かれても、話す側は答えづらいのかもしれません。 経験上、「あの話、面白かったです」という、質問ですらないような感想から会話が始まり、思いがけず深いエピソードを聞けたこともあります。 「あの話、面白かったです」 「そうですか。実はあれにはこんな経緯があって……」 「そうだったんですね。その時はどう考えていたんですか?」 そんなふうに、少しずつ話が深くなっていく。 良い問いを一発で投げることよりも、そこまで相手が無理なくたどり着けることの方が大切なのかもしれません。 そんなことを考えていたら、不意に「階段」が思い浮かびました。 階段には、「蹴上(けあげ)」と「踏面(ふみづら)」があります。 蹴上は、一段の高さ。踏面は、足を乗せる部分の奥行きです。 問いも、これと同じように考えられるのではないでしょうか。 蹴上は、問いの答えやすさ。 一段が高すぎる階段が登りづらいように、いきなり抽象的で本質的な問いを投げられると、答える側にも大きな負荷がかかります。 まずは簡単に答えられる問いから始める。そこから、少しずつ深い問いへ進んでいく。 問いにも、登りやすい高さがあるのだと思います。 そして踏面は、話を広げられる奥行き。 踏面が狭すぎれば、足を置く場所がない。問いも同じで、「はい」「いいえ」で終わるような問いばかりでは、なかなか話が広がりません。 一方で、広すぎる問いを投げれば、今度はどこに足を置けばいいのかわからなくなる。 相手が安心して立ち止まり、少し考え、そこから次へ進めるくらいの奥行きが必要です。 そして階段は、一段だけではありません。 蹴上...

まちづくりか、地域づくりか

関係者以外にとっては、どうでもよい話かもしれません。 ただ、私はわりと気にしています。 いわゆる地方創生や地域活性化、社会課題への対応といった取り組みを、「まちづくり」と呼ぶのか、「地域づくり」と呼ぶのか。 なかには「まちおこし」と呼ぶ人もいます。 おそらく、明確な正解はありません。言葉の使われ方は地域や分野によっても違いますし、同じ取り組みを指して、ある人はまちづくり、別の人は地域づくりと呼ぶこともあります。 それでも、あえて自分の立場を整理するなら、私は「地域づくり」という言葉を選んでいるのだと思います。 「まち」という言葉に、私は少しだけ生活との距離を感じます。 「今日は、まちに行く」 そんな言い方があるように、「まち」は日常の暮らしから少し離れた、店や施設が集まる場所を指すことがあります。 私の地元でも、「あんた、まちのもんね?」と言う会話を聞くことがありました。 同じ地域に暮らしていても、住んでいる場所によって「まちの人」と、それ以外の人が分けられている。その言葉には、空間的にも心理的にも、少し距離が含まれていたように思います。 もちろん、中心市街地の活性化や商店街の再生、公共空間の整備などについては、「まちづくり」という言葉がよく似合います。 建物や道路、広場、店舗などが集まる場所をどうつくり、どう使い、どのような活動を生み出すのか。 そこには、「まち」という対象が比較的わかりやすく存在しています。 一方で、私が関わる仕事の現場には、「まち」と呼ぶには少し輪郭の曖昧な場所も少なくありません。 集落や中山間地域、離島。 住宅と農地、職場、学校、福祉施設などが近接し、仕事と暮らし、人間関係が分けられない場所です。 そこで扱うテーマも、商業や観光だけではありません。 子育て、福祉、防災、教育、産業、文化、移動、人と人とのつながり。 一つの課題が、暮らしのさまざまな領域と結びついています。 そう考えると、「地域」という言葉の方が、私が向き合っている対象を包み込みやすいのです。 地域は、単なる場所ではありません。 そこに暮らす人、働く人、通う人、関わる人によってつくられる関係のまとまりでもあります。 だから地域づくりとは、何か新しい施設や事業をつくることだけではなく、暮らしの中にある関係や営みを捉え直し、これから何を実現するのかを考えることなのだと思います。 「ま...

公共性を支えるファシリテーション

 昨年あたりから、ファシリテーション研修のご依頼をいただく機会が増えました。 これまでは、ファシリテーションをどちらかといえば「スキル」として捉えていました。 場を設計する。意見を引き出す。議論を整理する。合意形成を支援する。 もちろん、それらは今でも大切な技術です。 ただ、研修の機会が増える中で、ファシリテーションの役割そのものについて考えることが増えてきました。 同じ時期に、「公共性」についても少しずつ学び始めました。 その中で印象に残っているのが、「公共性は平等ではない」という話です。 公共という言葉には、どこか「みんなに開かれているもの」という響きがあります。 けれど実際には、公共の場にすべての声が同じ重さで届くわけではありません。 声が大きい人の意見が通ることがあります。 発言に慣れている人の考えが中心になることがあります。 立場の強い人の言葉が、場の方向性を決めてしまうこともあります。 一方で、小さい声は公共に反映されづらい。 うまく言葉にできない声。 遠慮してしまう声。 そもそも場に届いていない声。 そうした声は、放っておくと見えないままです。 だからこそ、ファシリテーションには大きな意味があるのだと思います。 多様な人の意見を拾い、場に出し、整理し、見える形にしていく。 それは単に会議を円滑に進める技術ではなく、公共性を支えるための営みでもあります。 とはいえ、多様な意見をすべて反映させることが大事だとは思っていません。 現実には、時間も予算も人も限られています。 すべての意見をそのまま実現することはできません。 最終的には、限られたリソースの中で、必要なものが選択されていくべきだと思います。 ただ、その選択の前に、何が語られ、何が見えていなかったのか。 どんな立場の人がいて、どんな小さな声があったのか。 それが可視化され、記録され、場に残ることには意味があります。 公共とは、全員が同じ意見になることではありません。 全員が納得することでもありません。 公共とは、異なる立場の人が出会い、互いの存在を認めながら議論できる状態のことだと思います。 意見が一致しなくても、そこに異なる立場の人がいることを知る。 自分とは違う困りごとや願いがあることを理解する。 その存在が可視化され、尊重される。 そこに、公共性の土台があるのではないかと感じています。...

昨夜の家族会議。

  昨夜、めずらしく家族会議をしました。 といっても、たまたまそれっぽくなっただけなのですが、、、 テーマは、 「おもちゃが壊れないためには、どうするべきか?」 きっかけは、息子がおもちゃを壊したことでした。 といっても、島根で買ってきたフィギュアの台座がポッキり折れた、というくらいの話。 旅の思い出に、家族全員一回ずつガチャガチャで回して買ったもの。 すべて同じ仕様のものだったので、その台座が誰のものが壊れたのかはわからない状態です。 でも、壊れたものは壊れたわけで、、、 それを見た瞬間、少し悲しい気持ちになったのですが、同時に「これはいい機会かもしれない」とも思いました。 なので、息子に問いを立ててみました。 (怒っていないということを前提に) 「なぜ壊れたのか?」 「壊れないためにはどうすべきか?」 途中、現実逃避しながらも、悩み、考える息子。 そこに妻も混ざり、自然と家族会議のようになっていきました。 3人で話した結果、出てきたのは下記の3点。 ・まずは誰のおもちゃか確認すること ・おもちゃには、戦いしていいおもちゃと、そうでないおもちゃがあることを理解すること ・戦いしていいおもちゃかどうかは、手に入れた時に話し合って決めること 些細なことではありますが、いい家族会議だったと思います。 あとは、この結果を息子が守れるかどうか。 そこまで含めて、たぶん「育つ」ということなんだろうなと思っています。 息子にとっては大変だったと思うけれど、いい時間だったのではないかと思います。 親の自己満足かもですが、、、