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まちづくりか、地域づくりか

関係者以外にとっては、どうでもよい話かもしれません。 ただ、私はわりと気にしています。 いわゆる地方創生や地域活性化、社会課題への対応といった取り組みを、「まちづくり」と呼ぶのか、「地域づくり」と呼ぶのか。 なかには「まちおこし」と呼ぶ人もいます。 おそらく、明確な正解はありません。言葉の使われ方は地域や分野によっても違いますし、同じ取り組みを指して、ある人はまちづくり、別の人は地域づくりと呼ぶこともあります。 それでも、あえて自分の立場を整理するなら、私は「地域づくり」という言葉を選んでいるのだと思います。 「まち」という言葉に、私は少しだけ生活との距離を感じます。 「今日は、まちに行く」 そんな言い方があるように、「まち」は日常の暮らしから少し離れた、店や施設が集まる場所を指すことがあります。 私の地元でも、「あんた、まちのもんね?」と言う会話を聞くことがありました。 同じ地域に暮らしていても、住んでいる場所によって「まちの人」と、それ以外の人が分けられている。その言葉には、空間的にも心理的にも、少し距離が含まれていたように思います。 もちろん、中心市街地の活性化や商店街の再生、公共空間の整備などについては、「まちづくり」という言葉がよく似合います。 建物や道路、広場、店舗などが集まる場所をどうつくり、どう使い、どのような活動を生み出すのか。 そこには、「まち」という対象が比較的わかりやすく存在しています。 一方で、私が関わる仕事の現場には、「まち」と呼ぶには少し輪郭の曖昧な場所も少なくありません。 集落や中山間地域、離島。 住宅と農地、職場、学校、福祉施設などが近接し、仕事と暮らし、人間関係が分けられない場所です。 そこで扱うテーマも、商業や観光だけではありません。 子育て、福祉、防災、教育、産業、文化、移動、人と人とのつながり。 一つの課題が、暮らしのさまざまな領域と結びついています。 そう考えると、「地域」という言葉の方が、私が向き合っている対象を包み込みやすいのです。 地域は、単なる場所ではありません。 そこに暮らす人、働く人、通う人、関わる人によってつくられる関係のまとまりでもあります。 だから地域づくりとは、何か新しい施設や事業をつくることだけではなく、暮らしの中にある関係や営みを捉え直し、これから何を実現するのかを考えることなのだと思います。 「ま...

公共性を支えるファシリテーション

 昨年あたりから、ファシリテーション研修のご依頼をいただく機会が増えました。 これまでは、ファシリテーションをどちらかといえば「スキル」として捉えていました。 場を設計する。意見を引き出す。議論を整理する。合意形成を支援する。 もちろん、それらは今でも大切な技術です。 ただ、研修の機会が増える中で、ファシリテーションの役割そのものについて考えることが増えてきました。 同じ時期に、「公共性」についても少しずつ学び始めました。 その中で印象に残っているのが、「公共性は平等ではない」という話です。 公共という言葉には、どこか「みんなに開かれているもの」という響きがあります。 けれど実際には、公共の場にすべての声が同じ重さで届くわけではありません。 声が大きい人の意見が通ることがあります。 発言に慣れている人の考えが中心になることがあります。 立場の強い人の言葉が、場の方向性を決めてしまうこともあります。 一方で、小さい声は公共に反映されづらい。 うまく言葉にできない声。 遠慮してしまう声。 そもそも場に届いていない声。 そうした声は、放っておくと見えないままです。 だからこそ、ファシリテーションには大きな意味があるのだと思います。 多様な人の意見を拾い、場に出し、整理し、見える形にしていく。 それは単に会議を円滑に進める技術ではなく、公共性を支えるための営みでもあります。 とはいえ、多様な意見をすべて反映させることが大事だとは思っていません。 現実には、時間も予算も人も限られています。 すべての意見をそのまま実現することはできません。 最終的には、限られたリソースの中で、必要なものが選択されていくべきだと思います。 ただ、その選択の前に、何が語られ、何が見えていなかったのか。 どんな立場の人がいて、どんな小さな声があったのか。 それが可視化され、記録され、場に残ることには意味があります。 公共とは、全員が同じ意見になることではありません。 全員が納得することでもありません。 公共とは、異なる立場の人が出会い、互いの存在を認めながら議論できる状態のことだと思います。 意見が一致しなくても、そこに異なる立場の人がいることを知る。 自分とは違う困りごとや願いがあることを理解する。 その存在が可視化され、尊重される。 そこに、公共性の土台があるのではないかと感じています。...

昨夜の家族会議。

  昨夜、めずらしく家族会議をしました。 といっても、たまたまそれっぽくなっただけなのですが、、、 テーマは、 「おもちゃが壊れないためには、どうするべきか?」 きっかけは、息子がおもちゃを壊したことでした。 といっても、島根で買ってきたフィギュアの台座がポッキり折れた、というくらいの話。 旅の思い出に、家族全員一回ずつガチャガチャで回して買ったもの。 すべて同じ仕様のものだったので、その台座が誰のものが壊れたのかはわからない状態です。 でも、壊れたものは壊れたわけで、、、 それを見た瞬間、少し悲しい気持ちになったのですが、同時に「これはいい機会かもしれない」とも思いました。 なので、息子に問いを立ててみました。 (怒っていないということを前提に) 「なぜ壊れたのか?」 「壊れないためにはどうすべきか?」 途中、現実逃避しながらも、悩み、考える息子。 そこに妻も混ざり、自然と家族会議のようになっていきました。 3人で話した結果、出てきたのは下記の3点。 ・まずは誰のおもちゃか確認すること ・おもちゃには、戦いしていいおもちゃと、そうでないおもちゃがあることを理解すること ・戦いしていいおもちゃかどうかは、手に入れた時に話し合って決めること 些細なことではありますが、いい家族会議だったと思います。 あとは、この結果を息子が守れるかどうか。 そこまで含めて、たぶん「育つ」ということなんだろうなと思っています。 息子にとっては大変だったと思うけれど、いい時間だったのではないかと思います。 親の自己満足かもですが、、、

春を待つ果実、サワーポメロ

いちき串木野市の仕事の一環で、サワーポメロに関わっています。 個人的に、とても好きな果実。 存在感があって、爽やかで、そして美味しい。 この時期になると、我が家でもよく食べています。 ただ同時に、サワーポメロは「もったいない果実」でもあると思っています。 サワーポメロは「酸っぱい果実」というイメージを持たれがち。 でも、その多くは食べ方やタイミングの問題だったりします。 例えば、薄皮を剥かずに食べてしまうこと。 例えば、収穫時期ではないタイミングで出回っているものを食べてしまうこと。 例えば、十分に熟成する前に食べてしまうこと。 ちゃんと薄皮を剥き、時期を理解し、しっかり寝かせてから食べる。 そうすると、驚くほど爽やかで美味しい果実になります。 実際、熱狂的なファンも多い果実だと感じています。 そしてサワーポメロには、もうひとつの楽しみ方があります。 それは、食べるまでの時間も楽しめることです。 サワーポメロはとても大きな果実で、特徴的な色をしています。 部屋に置いておくだけで、なかなかの存在感があります。 我が家では、キッチンの見えるところに置いています。 まるで季節の花を飾るように。 しばらく置いていると、熟成が進み、だんだんと甘い香りが立ってきます。 息子がそのサワーポメロを手に取り、 「食べごろかなぁ?」と香りを嗅ぐ。 そんなやり取りも、なんだか嬉しいコミュニケーション。 いちき串木野市では、親が子どもにサワーポメロを剥いてあげる、という話もよく聞きます。 皮を剥くのが少し面倒な果実でもありますが、見方を変えれば、それだけ家族の記憶に残る果実でもあるのだと思います。 サワーポメロの収穫時期は、晩冬。 だいたい1月中旬から2月下旬ごろです。 そこからたっぷり寝かせて、春を感じ始める3月に食べる。 まさに春を待つ果実だと思います。 この一連のストーリーが、もっと伝わってほしい。 いつもそう思っています。 サワーポメロの木が植えられてから、もう50年以上が経つそうです。 それでもまだ、認知度や楽しみ方は十分に伝わっているとは言えません。 庭木で採れることもあり、「もらう果実」というイメージも強いかもしれません。 ですが、農家さんが本気で作るサワーポメロは、やはり違います。 適切な時期に、適切な食べ方で、きちんと価値が伝わる。 そんな認識のもとで選ばれ、食べられる果...

共感の顔をしたカットイン

先日、とある方へのヒアリングの場に参加しました。 私以外にも数名がいて、初めてお会いする方もいました。 ヒアリングが始まり、少しずつ場の空気や会話の流れが見えてきます。 その中で、少しモヤモヤする出来事が・・・ こちらが質問を投げかける。 それに対して、ヒアリング対象の方が丁寧に答えてくださる。 話を聞いていると、「もう少し深く聞けそうだな」という瞬間が・・・ そんな時に、別の方がカットインしてくるのです。 話に対して共感を示しながら、 「わかります」「そうですよね」と言いながら、 その流れで自分の情報や経験を挟み込んでくる。 共感しているのだから、悪いことではないはず。 むしろ場を盛り上げようとしているのかもしれません。 ただ、そのたびに、 聴きたかった話の筋が少しずつ逸れていきます。 そしてまた質問。 そしてまたカットイン。 その繰り返しでした。 「カットインしないでください」と言うのも野暮な話。 場としては成立していましたし、決して悪い雰囲気ではありませんでした。 ただ、終わった後に思ったのです。 「もっと聞けたはずだったな」と。 あの瞬間、もう少し軌道修正できたかもしれない。 そう考えると、少し反省も残りました。 ヒアリングが終わった後、この出来事についてAIと対話してみました。 そこで出てきた言葉が「自己投影型共感」です。 相手に共感しているようでいて、 実はその共感をきっかけに自分の話へと接続していく。 もしかすると、その方は認められたかったのかもしれません。 承認欲求の一つの表れだったのかな、とも思いました。 共感自体はとても大切なものです。 けれど、場によっては「聴くこと」に徹することのほうが大事なこともあります。 今回の経験を通して、 自分自身も場の流れをもう少し丁寧に整えられるようになりたいと思いました。 次は、もう少し良い時間にできるように。

一字ずつ、世界を読んでいく

  最近、息子がひらがなを覚え始めました。 まだ音と文字が一致しているわけではなく、 見たことはあるけれど、すぐには読めない。 そんな段階です。 先日、保育園からクイズが載ったチラシを持って帰ってきました。 読んで欲しいと頼まれたのですが、「自分で読んでみな」と促してみました。 妻が、ひらがなを覚えるおもちゃを使ってみたらどうかと息子に提案しました。 ボタンを押すと、文字の音を読み上げてくれるおもちゃです。 息子はそのおもちゃとチラシを睨めっこしながら、 一字一字、音を確かめながら読み始めました。 「み」 「ど」 「り」 「の」 「く」 「だ」 「も」 「の」 そんなふうに、ゆっくり、確実に。 時間はかかりましたが、 少しずつ言葉がつながり、文章になり、 やがてクイズの意味が見えてきました。 そして、なんと全問正解。 本人は大きくはしゃぐわけでもなく、 でも満足そうな表情をしていました。 一字ずつ、世界を読んでいく。 そんな姿に、息子の成長を感じたひとときでした。

沿道に立ったら思いのほか楽しかった話

先週の日曜日、鹿児島マラソンに参加しました! 沿道応援に。笑 引っ越しをしたこともあって、マラソンコースがぐっと近くなりました。 知り合いが走るということもあり、「せっかくだし行ってみるか」と軽い気持ちで向かいました。 正直に言うと、これまで駅伝やマラソンの沿道応援に行く人の気持ちがよくわかりませんでした。 テレビで見る分には盛り上がるけれど、わざわざ現地で立ち続けるってどうなんだろう、と。 でも、行ってみると、思いのほか楽しかった!笑 仮装して走っている人に声をかけると、笑顔で応えてくれる。 苦しそうな表情のランナーに「がんばれー!」と声をかけると、軽く手を上げてくれる。 そのやりとりが、妙にうれしい。 走っているのは向こうなのに、 なぜかこちらが元気をもらっている感覚がありました。 想像以上にランナーの数が多く、しかも当然ながら走っているので、 結局、知り合いは見つけられませんでした。笑 最後のランナーを見送ってから、図書館に立ち寄り、 そのあと近所にできたクッキー屋さんに寄って帰りました。 なんてことのない一日ですが、 なんだかいい休日でした。 沿道に立つという、これまで自分が選ばなかった行動。 やってみると、ちゃんと景色が変わるものだなと思いました。