ノイズと、創造性
最近、YouTubeなどでデザイナーズマンションを内見する動画を目にすることが増えました。
建築の専門知識がなくても、誰もがデザインを身近に感じられる点では面白い現象です。
けれど一方で、そうした動画が「ネタ」として消費され、クリエイターの挑戦を揶揄するような空気を生んでいることに、少し怖さも感じます。
上記の内見動画もそうですが、「快適さ」や「使いやすさ」だけを価値の基準とする社会の流れがあるように思います。
それ自体は悪いことではありませんが、便利さが正義になりすぎると、創造の余白が失われていくのではないかなと思えてしまいます。
私は、創造性の余白は、人が感じる違和感や居心地の悪さにもあって、そういう感覚もノイズではあるけれど、大事なものだと考えています。
なので、社会が「ノイズのない状態」へと進んでいるのではないかと少し不安に、、、
ノイズが消える社会の行き着く先
もし、あらゆるノイズが排除されていけば、世界はどんどん滑らかで、安全で、整っていきます。
けれどその先にあるのは、驚きや感動が起こらない“静かな絶望”かもしれません。
リスクを取る人が減り、挑戦が笑われ、新しい表現が生まれにくくなる。
そして、人々の想像力は徐々に退化していく。
社会全体が「正解の形」をしていながら、どこか息苦しく、何かが足りない――そんな未来がぼんやりと見えてきます。
この流れは、生成AIの広がりにも重なります。
AIは圧倒的なスピードで「整った正解」をつくります。
その精度と便利さは素晴らしいものですが、同時に「間」や「ためらい」といった文化的な美しさを削り取ってしまう。
日本の「粋」や「風情」は、言葉にしない余韻や、あえて外す間合いに宿っていました。
AIが整えすぎるほど、そうした「ゆらぎ」が消えていく。
では、人間はどうすればいいのでしょうか。
おそらく、AIを「正解を出す道具」ではなく、自分の感覚を確かめるための「鏡」として使うことが鍵。
AIが整えたものを見て、「自分ならどこを崩すか」を選ぶ。
それこそが、これからの創造のかたちなのかもしれません。
クリエイティブとは、ノイズを設計すること
本来、デザインや建築、文章などの表現行為は、「秩序とノイズの配分」だと言えます。
完全に整うと退屈で、崩しすぎると伝わらない。
その“ちょうどよいズレ”を見つけるのが、作者の仕事です。
これからの時代は、ノイズをどう残すかが創造の本質になるでしょう。
AIが秩序を量産する中で、どんな不完全さを残すかが、その人の思想を映す。
「ノイズの質」を選び取るセンスが、人間らしさを決定づける時代が来ているのかなと思ったりしています。
ノイズが与えてくれるもの
ノイズは単なる誤差ではなく、人間に「生きている実感」や「安心感」を与えてくれる存在なのではないかと思い始めています。
予期せぬ揺らぎに出会うとき、私たちは「感じる」ことを思い出す。
そして、不完全さの中に他者との関係が生まれ、自分自身の感性を確かめることができる。
整いすぎた世界で、ノイズは人間の証明になっています。
少しのズレ、偶然、間の静けさ――そのどれもが、「まだ機械の中じゃない」と教えてくれる。
今、社会は「快適さの極み」に向かっています。
けれど、完全に整った世界は、どこか息苦しい。
だからこそ私たちは、あえてノイズを感じ、残し、そこに人間らしさを見いだしていく必要があるのかもしれません。
ノイズをノイズと感じられる感受性。
そこにこそ、安心感と創造性が共存する未来があるのだと思います。

