昨年あたりから、ファシリテーション研修のご依頼をいただく機会が増えました。
これまでは、ファシリテーションをどちらかといえば「スキル」として捉えていました。
場を設計する。意見を引き出す。議論を整理する。合意形成を支援する。
もちろん、それらは今でも大切な技術です。
ただ、研修の機会が増える中で、ファシリテーションの役割そのものについて考えることが増えてきました。
同じ時期に、「公共性」についても少しずつ学び始めました。
その中で印象に残っているのが、「公共性は平等ではない」という話です。
公共という言葉には、どこか「みんなに開かれているもの」という響きがあります。
けれど実際には、公共の場にすべての声が同じ重さで届くわけではありません。
声が大きい人の意見が通ることがあります。
発言に慣れている人の考えが中心になることがあります。
立場の強い人の言葉が、場の方向性を決めてしまうこともあります。
一方で、小さい声は公共に反映されづらい。
うまく言葉にできない声。
遠慮してしまう声。
そもそも場に届いていない声。
そうした声は、放っておくと見えないままです。
だからこそ、ファシリテーションには大きな意味があるのだと思います。
多様な人の意見を拾い、場に出し、整理し、見える形にしていく。
それは単に会議を円滑に進める技術ではなく、公共性を支えるための営みでもあります。
とはいえ、多様な意見をすべて反映させることが大事だとは思っていません。
現実には、時間も予算も人も限られています。
すべての意見をそのまま実現することはできません。
最終的には、限られたリソースの中で、必要なものが選択されていくべきだと思います。
ただ、その選択の前に、何が語られ、何が見えていなかったのか。
どんな立場の人がいて、どんな小さな声があったのか。
それが可視化され、記録され、場に残ることには意味があります。
公共とは、全員が同じ意見になることではありません。
全員が納得することでもありません。
公共とは、異なる立場の人が出会い、互いの存在を認めながら議論できる状態のことだと思います。
意見が一致しなくても、そこに異なる立場の人がいることを知る。
自分とは違う困りごとや願いがあることを理解する。
その存在が可視化され、尊重される。
そこに、公共性の土台があるのではないかと感じています。
その意味で、ファシリテーターの役割は、単なる進行役ではありません。
場の声の偏りに気づくこと。
小さな声が消えないようにすること。
議論のプロセスが一部の人だけに有利にならないように整えること。
そして、異なる立場の人たちが、同じ場で考えられる状態をつくること。
ファシリテーターとは、公共性を支える公平な対話のプロセスを設計し、守る専門職である。
最近は、そんなふうに考えています。
