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今日もどっかでニッチな対決

先月、息子と一緒に見ていた「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」が、ついに最終回を迎えました。 戦隊シリーズ50周年という節目の年。 そして、この作品が「最後の戦隊シリーズ」になるという話もあり、どこか特別な空気をまとった作品でした。 ちょうどこの一年は、息子の転園のタイミングとも重なっていました。 環境が変わり、登園にネガティブになっていた時期。 園庭の隅でうずくまり、小さくなっている息子の姿を見たとき、胸がキュッとなったことを覚えています。 そんな朝、車の中でかけていたのがゴジュウジャーのテーマソングでした。 歌詞にある 「今日もどっかでニッチなショウダウン(対決)」 そのフレーズが、不思議と現実とリンクしました。 ヒーローの戦いは派手ですが、息子の戦いは小さなものです。 それでも本人にとっては全力の対決。 園の門をくぐること。 教室に入ること。 先生に挨拶すること。 それは確かに、「ニッチなショウダウン」でした。 テーマソングを息子と歌いながら、力を振り絞って登園してくれていたあの日々。 背中を押してくれる音楽でした。 このシリーズでは、過去の戦隊ヒーローたちも登場しました。 私が子どもの頃に夢中になった、カクレンジャー、ダイレンジャー、ジュウレンジャー。 画面に映った瞬間、思わず胸が熱くなりました。 息子と並んで戦隊を見ながら、自分の少年時代とも再会する。 50周年という時間の厚みを、少し実感した気がします。 ゴジュウジャーは、ただのテレビ番組ではなく、 息子の一年と重なった、思い入れのある作品になりました。 ヒーローは画面の中にいるけれど、 毎朝小さな対決に向き合っていた息子も、立派なヒーローでした。 戦隊シリーズ、ありがとう。 今日もどこかで、誰かがニッチな対決をしている。 きっとそれは、思っている以上に尊い気がします。

桃太郎だって行間で戦っていたのかも。

  先日、息子が借りてきた、五味太郎さんの『だれでも知っている あの有名なももたろう』を読みました。 有名な桃太郎のストーリーの「見えていないところ」を描き直した絵本です。 読んでみると、その裏側を想像する行為そのものがとても刺激的で、物語の見え方が一気に変わりました。 描かれていない部分にどれだけ想像を巡らせるか。 誰もが知っている物語を、どう読み替えるか。 そうした行為こそが、クリエイティビティなのだと感じます。 大学時代、設計の授業で ラーメンズの「風と桶に関する幾つかの考察」 を見るようにと言われたことがあります。 「風が吹けば桶屋が儲かる」という慣用句をもとに、因果関係を何パターンも描き変えるコントです。 同じ素材でも、つなぎ方次第でまったく別のストーリーになる。 その柔軟な視点は、今思い返しても鮮やかでした。 こうした「見えていない部分を読む力」は、地域づくりにも深く関係していると思っています。 地域の表面には、数字や課題や成功事例が並びます。 けれど、本当に動かしているのは、その裏側にある関係性や、気づかれずに眠っている価値だと思います。 そこに想像を巡らせられるかどうかで、地域のストーリーは大きく変わります。 どこにでもありそうな地域で、 たまたま出会った人たちと、 地域を好転させるストーリーをどう描けるか。 成功事例をそのまま当てはめ、受け止めるのではなく、 行間を読み、背景を理解し、自分たちの物語を再編集していく。 その積み重ねこそが、地域を変えていく力につながると感じます。 地域づくりに求められるクリエイティビティは、 派手さではなく、見えていない部分に想像(創造)を差し込む力。 そして、その「読み取ったもの」をストーリーとして編んでいく力なのだと思います。

新年あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。 今年の年末年始は、義理の実家でゆっくりと過ごしました。 紅白歌合戦を見たり、箱根駅伝を眺めたり。 いかにも正月らしい時間だったと思います。 紅白では、矢沢永吉さんのパフォーマンスが印象に残りました。 年齢を感じさせないエネルギーと、あの佇まい。 見ていて、素直に元気と勇気をもらいました。 今年はロックで行こうかな、と思ったり。……知らんけど。 先日、今年最初のラジオには、占星術師の方をゲストにお迎えしました。 その方のお話で印象的だったのが、「2026年は本音で生きる人が報われる年」という言葉です。 何をもって“本音で生きる”のかは簡単ではありませんが、自分は本音で生きていけているのだろうか、と我に返るきっかけになりました。 日頃から、自分と向き合うことは意識しています。 それでも、忙しさや役割に流されてしまうことも少なくありません。 だからこそ、今年はより丁寧に、自分の声を聞きながら過ごせる一年にしたいと思っています。 振り返ると、ここ数年は「土台をつくる時間」だったように感じます。 試行錯誤しながら、積み重ねてきたものが、少しずつ形になってきた感覚もあります。 今年は、その土台をベースに、無理なく、でも確実に伸ばしていける一年にしたいところです。 焦らず、誤魔化さず、等身大で。 そんな一年にしていければと思います。 改めまして、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ノイズと、創造性

最近、YouTubeなどでデザイナーズマンションを内見する動画を目にすることが増えました。 建築の専門知識がなくても、誰もがデザインを身近に感じられる点では面白い現象です。 けれど一方で、そうした動画が「ネタ」として消費され、クリエイターの挑戦を揶揄するような空気を生んでいることに、少し怖さも感じます。 上記の内見動画もそうですが、「快適さ」や「使いやすさ」だけを価値の基準とする社会の流れがあるように思います。 それ自体は悪いことではありませんが、便利さが正義になりすぎると、創造の余白が失われていくのではないかなと思えてしまいます。 私は、創造性の余白は、人が感じる違和感や居心地の悪さにもあって、そういう感覚もノイズではあるけれど、大事なものだと考えています。 なので、社会が「ノイズのない状態」へと進んでいるのではないかと少し不安に、、、 ノイズが消える社会の行き着く先 もし、あらゆるノイズが排除されていけば、世界はどんどん滑らかで、安全で、整っていきます。 けれどその先にあるのは、驚きや感動が起こらない“静かな絶望”かもしれません。 リスクを取る人が減り、挑戦が笑われ、新しい表現が生まれにくくなる。 そして、人々の想像力は徐々に退化していく。 社会全体が「正解の形」をしていながら、どこか息苦しく、何かが足りない――そんな未来がぼんやりと見えてきます。 この流れは、生成AIの広がりにも重なります。 AIは圧倒的なスピードで「整った正解」をつくります。 その精度と便利さは素晴らしいものですが、同時に「間」や「ためらい」といった文化的な美しさを削り取ってしまう。 日本の「粋」や「風情」は、言葉にしない余韻や、あえて外す間合いに宿っていました。 AIが整えすぎるほど、そうした「ゆらぎ」が消えていく。 では、人間はどうすればいいのでしょうか。 おそらく、AIを「正解を出す道具」ではなく、自分の感覚を確かめるための「鏡」として使うことが鍵。 AIが整えたものを見て、「自分ならどこを崩すか」を選ぶ。 それこそが、これからの創造のかたちなのかもしれません。 クリエイティブとは、ノイズを設計すること 本来、デザインや建築、文章などの表現行為は、「秩序とノイズの配分」だと言えます。 完全に整うと退屈で、崩しすぎると伝わらない。 その“ちょうどよいズレ”を見つけるのが、作者の仕事です。...

「モモ」とファシリテーション

先日、ご依頼をいただき、自治体関係職員向けにファシリテーション研修を実施しました。 これまでの経験を活かしながら構成しましたが、少し盛り込みすぎたかもしれません。 それでも、自分自身がファシリテーションについてじっくり考える貴重な時間になりました。 最近、息子の寝かしつけの時間に、ミヒャエル・エンデ著『モモ』を読み聞かせしています。 (理解出来ているかどうかはわかりません。笑) 言わずと知れた名作ですが、改めて読むと、ファシリテーションに通じる要素が多くあることに気づかされます。 主人公・モモの特技は「傾聴」です。 モモは、人の声に耳を傾けます。 そして、彼女が何かを“する”わけでもないのに、話した人たちは次第に自分の中で答えを見つけ、問題が解決していきます。 まさにファシリテーターの姿そのものです。 ただし、この傾聴には時間がかかります。 (しばしばファシリテーションやワークショップのデメリットで言われる点と重なります。) モモの世界では、その「時間」を奪う存在として“時間泥棒”が登場します。 人が効率や成果を求めすぎるあまり、大切な対話の時間を手放していく。 この構図は、現代の私たちにも重なります。 ファシリテーションとは、意見を引き出し、整理し、まとめていく技術であると同時に、 “人が考える時間”を支える営みでもあるのだと思います。 モモのように相手の声に耳を傾けること。 そして、その沈黙を恐れず、時間を共にすること。 それが本来のファシリテーターの姿なのかもしれません。

木削り

最近、趣味を模索しています。 歳を重ねるごとに、安定思考になり、失敗したくない気持ちが強くなった気がします。 そんなことを先日友人にも指摘されて、30代最後の年に「これから続けられる趣味」を見つけようと思っています。 そんなこんなで、木を削りはじめています。 なぜ木削りなのか。 前職の頃に参加した「ヨウさんの木削り教室」を思い出したから。 とても心地よい時間だった記憶が残るワークショップ。 ヨウさん——本名は滝本ヨウ。 都市計画コンサルタントとして激務を続けるなか、心を病み、不眠症に悩んだ時期があったそう。 そんな時、親友から送られてきた一本の切り出しナイフといくつかの木片が、木削りを始めるきっかけに。 その瞬間、忘れていた少年時代の感覚が蘇ったそうだ。 自然の中で夢中で木を削っていた頃の自分。 それは「頭で考える自分」ではなく、「心と感覚で生きていた自分」との再会だったとヨウさんは語っています。 木削りは、何か用途のあるものを作るわけではなく、 自分で選んだ木と対話しながら、ただ削る。 年輪に沿い、節に出会い、考えながら刃を入れていく。 終わりも自分で決める。 ヤスリをかけて、ワックスを塗ったら完成。 それだけの行為なのに、確かに満たされる。 ヨウさんは言っていた。 「木削りは、木に触れて自然を感じる時間。そして、素直な自分に還る時間。」 彼が大切にしているのは、機械文明ではなく、人の手による“文化”としての暮らし。 自然と人との間にある、ゆるやかな呼吸のような関係だ。 そんなワークショップを思い出して、ふと自分でもやってみはじめました。 ホームセンターで廃材を探し、肥後守を一本購入。 削り始めて小一時間。 特に用途はない。 それでも短い時間の中で、木に愛着が湧いてくる不思議。 削る音と木の香り。 手の中に残る感触。 その小さな積み重ねが、思考をほどいてくれる。 きっと、しばらく続けると思います。

自分にあった1本が選びたい。

  鹿児島県には113の焼酎蔵元があり、銘柄は2000を超えると言われています。 その象徴として思い出すのが、よく行く県庁のロビー。 使われなくなったエスカレーターに、県内の焼酎がずらりと並んでいますが、その前を通るたびに思うんです。 「この違いを全て語れる人は何人いるのだろうか?」  「ここから私に合った一本を、誰が選んでくれるのだろうか?」 焼酎の売り場に立っても、似たような感覚を抱く。  商品ラベルには、力強いロゴや煌びやかな写真、イラストが並ぶ。 けれど、それが自分に合っているかどうかは、まるでわからない。 以前、焼酎の蔵元の方と仕事をする機会があった。そのとき教えてもらったのが、「蒸留方法」「麹」「芋の種類」の組み合わせで焼酎の個性がつくられている、という考え方でした。 とてもわかりやすかったし、それを知ってから、自分に合った焼酎の傾向も少しずつわかるようになってきた。 改めて売り場に立つと、ほとんどの焼酎は、その情報を提供していないことに気づく。 芋の種類と麹の種類が書いてあるものは稀にあるが、蒸留方法について書いてあるラベルにはほとんど出会わない。 (私が自分に合った焼酎を選ぶには、蒸留方法を知ることが何より大事。) そんな中、先日訪れた焼酎の売り場には、なんとポップに蒸留方法が書いてありました。  それだけで歓喜。笑 ラベルに記載できる情報には限りがあるのは理解しているつもりです。  それでも、せめて売り場のポップやプライスカードに、「蒸留方法」「麹の種類」「芋の種類」を記してくれていれば、選びやすさは格段に上がる。 そしてこの考え方—— 蒸留方法 × 麹 × 芋 ——が、もっと広まるべきだと思っています。 こうした売り場が増えてほしい。 私の出身大学では、飲み会文化が盛んだった。 安価な、いわゆる“芋臭い”焼酎(こういうと怒られますが)を何の説明もなく飲まされて、焼酎嫌いになってしまう人がたくさんいました。 こういう“ミスマッチ”をなくすことが、焼酎文化の裾野を広げる上でも、きっと大事だと思っています。