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侮蔑される側になって、「謝ってほしい」が少しわかった

先日、Xのタイムラインに、とあるnoteの記事が流れてきました。 内容は、私もよく聴いているポッドキャストにおいて、私の出身地でもある山陰について侮蔑的とも取れる話がされていた、というもの。 私も山陰出身です。 記事を読みながら、 「ああ、これは嫌だよなぁ」 と、めちゃくちゃ気持ちがわかりました。 気になったので、実際に当該コンテンツも視聴。 前後の文脈も含めて聴いてみると、普段からそのポッドキャストを聴いている私としては、「まあ、この二人ならこういうやり取りはするだろうなぁ」と思うところもありました。 もちろん、いい気持ちはしません。 ただ、普段から二人のやり取りを知っているから、まだ文脈を補って受け取ることができる。 これを初めて聴いた人や、山陰に思い入れのある人が聞けば、そりゃ怒るだろうなぁとも思いました。 そして、自分でも少し意外な感情が湧いてきました。 「ちゃんと謝ってほしいなぁ」 という気持ちです。 それも、SNSなどに掲載される定型文のような謝罪ではなく、できれば当人たちの声で。 何を考えてあの発言をしたのか。そして、受け取った人が嫌な思いをしたことについて、どう感じているのか。 それを本人たちの言葉で聞きたいと思いました。 SNSで誰かが炎上すると、 「謝れ」 というコメントがたくさん並ぶことがあります。 これまでの私は、それを見るたびに、そこまで謝罪を求めるものなのだろうかと思うことがありました。 もちろん、炎上に乗っかって反射的に「謝れ」と言っている人もいるでしょう。 でも今回、ほんの少しだけ侮蔑される側に回ってみて、その感情がわかった気がしました。 たぶん、欲しいのは「謝罪」という行為そのものだけではない。 自分たちが傷ついたことを、相手にも認識してほしい。 「そんなつもりではなかった」で終わるのではなく、自分たちがどう受け取ったのか、その存在を一度こちら側から見てほしい。 その確認として、「謝ってほしい」という感情が生まれることもあるのかもしれません。 今回の出来事で、誰かに強く謝罪を求める人の気持ちがすべてわかったとは思いません。 ただ、 「謝ってほしいって、こういう気持ちから出てくることもあるのか」 と、ほんの少しだけわかりました。 侮蔑される側になって、初めて気づいた感情でした。

「バトルしようよ」が苦痛だった

息子からよく言われます。 「バトルしようよ」 正直に言うと、これがちょっと苦痛でした。 ブロックでポケモンのようなモンスターを作り、それを戦わせる遊びです。 もちろん、息子と遊ぶこと自体が嫌なわけではありません。 問題は、ルールです。 というか、ルールがない。 「攻撃!」 「バリアあるから効かない!」 すべてが息子の裁量で決まります。 こちらがどんな攻撃をしても、息子が「効かない」と言えば効かない。 向こうが繰り出した必殺技は、だいたいものすごく強い。 何も面白くない。 これはいかん。 せめて、私も楽しめるくらいのゲーム性を持たせられないものか。 そこで、AIに相談してみることにしました。 着想にしたのは、私も子どもの頃に遊んだ「バトル鉛筆」です。 鉛筆を転がして、出た面によって相手にダメージを与えたり、特殊な効果を発動したりする。 運の要素があるから、大人と子どもでも勝負が成立します。 これをブロックモンスターのバトルに応用してみることにしました。 まず、モンスターを「攻撃型」「バランス型」「防御型」の3種類に分類。 タイプの違いで、サイコロの出目によって与えられるダメージが違ったり、ライフポイントが違ったり。 それぞれに特徴を持たせ、強すぎるタイプが生まれないようにゲームバランスを調整しました。 さらに、属性と相性の概念も導入。 (ただ、ここはまだ少し難しく、相性によって始まる前から勝負が決まってしまうこともあり、現在も調整中です。) 最初は1対1で戦わせていましたが、これだと相性次第ですぐに決着がついてしまう。 そこで、複数のモンスターを用意して戦うルールに変更しました。 「攻撃型」「バランス型」「防御型」は、それぞれ1体ずつしか使えない。 つまり、最大3対3。 誰を先に出すのか。相手を見て、次にどのモンスターを出すのか。 少しずつ考える余地も生まれてきました。 そして何より大きかったのが、 妻でも遊べるようになったこと。 これまでは息子の脳内にしかルールブックが存在しなかったので、第三者が参加するにはなかなかハードルの高い遊びでした。 でも、ルールをつくったことで、みんなが同じ条件で遊べるようになりました。 AIを使ってみると、こんなゲームまで一緒につくれるのかと感心しました。 息子の想像力だけで遊ぶ世界も、もちろん面白い。 でも、そこに少しだけルールを加え...

「整う」がわからない

仕事の関係もあって、最近サウナに挑戦しています。 サウナに入り、水風呂に入り、休憩する。 調べたところによると、これを何度か繰り返すことで、いわゆる「整う」という状態になるらしいので、やってみています。 でも、いまいち「整う」がわからない。 そもそも「整う」とは、どんな状態なのか。 AIに聞いてみたところ、こんな感覚があるそうです。 ・身体の力が抜ける。 ・頭がぼんやりするのに、不思議とスッキリしている。 ・呼吸が自然にゆっくりになる。 ・椅子に座っているだけなのに妙に気持ちいい。 ・身体がふわっと浮くような感覚がある。 ・「しばらくここにいたい」と感じる。 なるほど。 一つずつ自分の身体と照らし合わせてみます。 「身体の力が抜ける」 これは、あります。でも、それを「気持ちいい」とは思えていません。 「呼吸が自然にゆっくりになる」 言われてみれば、確かにそうなっています。 「身体がふわっと浮くような感覚がある」 これも、あります。 ・・・多分、整っている。 どうやら私は、サウナーの皆さんが「整う」と表現している身体変化の一部を、すでに経験しているようでした。 ただ、その感覚にポジティブな意味づけができていない。 身体の力が抜けて、少しふわっとする。 サウナーなら、 「きた。整った。」 となるのでしょうが、私は、 「うーん、まぁ、言われれば。」 くらいに受け取っている。 同じ身体変化でも、それをどう認識するかによって、体験はずいぶん変わるものです。 もしかすると「整う」とは、身体の状態だけではなく、その状態を「気持ちいい」と認識できるところまで含めた言葉なのかもしれません。 経験を重ねれば、その感覚も変わってくるのでしょうか。 ちなみに、今のところ間違いなく「気持ちいい」と思えている瞬間があります。 脱衣所の扇風機。 風呂から上がり、身体を拭いて、扇風機の前に立つ。 これは文句なしに気持ちいい。 整ったかどうかはわかりませんが、扇風機はわかる。 果たして私は、これから「整える」ようになるのでしょうか。

良い問いは、登りやすい階段のように

先日、ファシリテーション講座で講師を務めました。 その中で、「良い問いとは何か」という話をしました。 限られた時間だったこともあり、「どんな問いが良いか」についてはお伝えできましたが、「良い問いにどうやってたどり着くのか」までは話せませんでした。 そんなことを考えていた矢先、よく聴いているポッドキャストで印象的な話がありました。 スピーカーは講演経験も豊富な方。 講演後の質疑応答について、「準備された本質的な質問ばかりだと、実は話しづらい」という趣旨の話をされていました。 なるほど、と思いました。 質問する側としては、せっかくの機会だから良い質問をしたい。できれば、相手の本質に迫るようなことを聞きたい。 でも、いきなり本質的なことを聞かれても、話す側は答えづらいのかもしれません。 経験上、「あの話、面白かったです」という、質問ですらないような感想から会話が始まり、思いがけず深いエピソードを聞けたこともあります。 「あの話、面白かったです」 「そうですか。実はあれにはこんな経緯があって……」 「そうだったんですね。その時はどう考えていたんですか?」 そんなふうに、少しずつ話が深くなっていく。 良い問いを一発で投げることよりも、そこまで相手が無理なくたどり着けることの方が大切なのかもしれません。 そんなことを考えていたら、不意に「階段」が思い浮かびました。 階段には、「蹴上(けあげ)」と「踏面(ふみづら)」があります。 蹴上は、一段の高さ。踏面は、足を乗せる部分の奥行きです。 問いも、これと同じように考えられるのではないでしょうか。 蹴上は、問いの答えやすさ。 一段が高すぎる階段が登りづらいように、いきなり抽象的で本質的な問いを投げられると、答える側にも大きな負荷がかかります。 まずは簡単に答えられる問いから始める。そこから、少しずつ深い問いへ進んでいく。 問いにも、登りやすい高さがあるのだと思います。 そして踏面は、話を広げられる奥行き。 踏面が狭すぎれば、足を置く場所がない。問いも同じで、「はい」「いいえ」で終わるような問いばかりでは、なかなか話が広がりません。 一方で、広すぎる問いを投げれば、今度はどこに足を置けばいいのかわからなくなる。 相手が安心して立ち止まり、少し考え、そこから次へ進めるくらいの奥行きが必要です。 そして階段は、一段だけではありません。 蹴上...

まちづくりか、地域づくりか

関係者以外にとっては、どうでもよい話かもしれません。 ただ、私はわりと気にしています。 いわゆる地方創生や地域活性化、社会課題への対応といった取り組みを、「まちづくり」と呼ぶのか、「地域づくり」と呼ぶのか。 なかには「まちおこし」と呼ぶ人もいます。 おそらく、明確な正解はありません。言葉の使われ方は地域や分野によっても違いますし、同じ取り組みを指して、ある人はまちづくり、別の人は地域づくりと呼ぶこともあります。 それでも、あえて自分の立場を整理するなら、私は「地域づくり」という言葉を選んでいるのだと思います。 「まち」という言葉に、私は少しだけ生活との距離を感じます。 「今日は、まちに行く」 そんな言い方があるように、「まち」は日常の暮らしから少し離れた、店や施設が集まる場所を指すことがあります。 私の地元でも、「あんた、まちのもんね?」と言う会話を聞くことがありました。 同じ地域に暮らしていても、住んでいる場所によって「まちの人」と、それ以外の人が分けられている。その言葉には、空間的にも心理的にも、少し距離が含まれていたように思います。 もちろん、中心市街地の活性化や商店街の再生、公共空間の整備などについては、「まちづくり」という言葉がよく似合います。 建物や道路、広場、店舗などが集まる場所をどうつくり、どう使い、どのような活動を生み出すのか。 そこには、「まち」という対象が比較的わかりやすく存在しています。 一方で、私が関わる仕事の現場には、「まち」と呼ぶには少し輪郭の曖昧な場所も少なくありません。 集落や中山間地域、離島。 住宅と農地、職場、学校、福祉施設などが近接し、仕事と暮らし、人間関係が分けられない場所です。 そこで扱うテーマも、商業や観光だけではありません。 子育て、福祉、防災、教育、産業、文化、移動、人と人とのつながり。 一つの課題が、暮らしのさまざまな領域と結びついています。 そう考えると、「地域」という言葉の方が、私が向き合っている対象を包み込みやすいのです。 地域は、単なる場所ではありません。 そこに暮らす人、働く人、通う人、関わる人によってつくられる関係のまとまりでもあります。 だから地域づくりとは、何か新しい施設や事業をつくることだけではなく、暮らしの中にある関係や営みを捉え直し、これから何を実現するのかを考えることなのだと思います。 「ま...

公共性を支えるファシリテーション

 昨年あたりから、ファシリテーション研修のご依頼をいただく機会が増えました。 これまでは、ファシリテーションをどちらかといえば「スキル」として捉えていました。 場を設計する。意見を引き出す。議論を整理する。合意形成を支援する。 もちろん、それらは今でも大切な技術です。 ただ、研修の機会が増える中で、ファシリテーションの役割そのものについて考えることが増えてきました。 同じ時期に、「公共性」についても少しずつ学び始めました。 その中で印象に残っているのが、「公共性は平等ではない」という話です。 公共という言葉には、どこか「みんなに開かれているもの」という響きがあります。 けれど実際には、公共の場にすべての声が同じ重さで届くわけではありません。 声が大きい人の意見が通ることがあります。 発言に慣れている人の考えが中心になることがあります。 立場の強い人の言葉が、場の方向性を決めてしまうこともあります。 一方で、小さい声は公共に反映されづらい。 うまく言葉にできない声。 遠慮してしまう声。 そもそも場に届いていない声。 そうした声は、放っておくと見えないままです。 だからこそ、ファシリテーションには大きな意味があるのだと思います。 多様な人の意見を拾い、場に出し、整理し、見える形にしていく。 それは単に会議を円滑に進める技術ではなく、公共性を支えるための営みでもあります。 とはいえ、多様な意見をすべて反映させることが大事だとは思っていません。 現実には、時間も予算も人も限られています。 すべての意見をそのまま実現することはできません。 最終的には、限られたリソースの中で、必要なものが選択されていくべきだと思います。 ただ、その選択の前に、何が語られ、何が見えていなかったのか。 どんな立場の人がいて、どんな小さな声があったのか。 それが可視化され、記録され、場に残ることには意味があります。 公共とは、全員が同じ意見になることではありません。 全員が納得することでもありません。 公共とは、異なる立場の人が出会い、互いの存在を認めながら議論できる状態のことだと思います。 意見が一致しなくても、そこに異なる立場の人がいることを知る。 自分とは違う困りごとや願いがあることを理解する。 その存在が可視化され、尊重される。 そこに、公共性の土台があるのではないかと感じています。...

昨夜の家族会議。

  昨夜、めずらしく家族会議をしました。 といっても、たまたまそれっぽくなっただけなのですが、、、 テーマは、 「おもちゃが壊れないためには、どうするべきか?」 きっかけは、息子がおもちゃを壊したことでした。 といっても、島根で買ってきたフィギュアの台座がポッキり折れた、というくらいの話。 旅の思い出に、家族全員一回ずつガチャガチャで回して買ったもの。 すべて同じ仕様のものだったので、その台座が誰のものが壊れたのかはわからない状態です。 でも、壊れたものは壊れたわけで、、、 それを見た瞬間、少し悲しい気持ちになったのですが、同時に「これはいい機会かもしれない」とも思いました。 なので、息子に問いを立ててみました。 (怒っていないということを前提に) 「なぜ壊れたのか?」 「壊れないためにはどうすべきか?」 途中、現実逃避しながらも、悩み、考える息子。 そこに妻も混ざり、自然と家族会議のようになっていきました。 3人で話した結果、出てきたのは下記の3点。 ・まずは誰のおもちゃか確認すること ・おもちゃには、戦いしていいおもちゃと、そうでないおもちゃがあることを理解すること ・戦いしていいおもちゃかどうかは、手に入れた時に話し合って決めること 些細なことではありますが、いい家族会議だったと思います。 あとは、この結果を息子が守れるかどうか。 そこまで含めて、たぶん「育つ」ということなんだろうなと思っています。 息子にとっては大変だったと思うけれど、いい時間だったのではないかと思います。 親の自己満足かもですが、、、

春を待つ果実、サワーポメロ

いちき串木野市の仕事の一環で、サワーポメロに関わっています。 個人的に、とても好きな果実。 存在感があって、爽やかで、そして美味しい。 この時期になると、我が家でもよく食べています。 ただ同時に、サワーポメロは「もったいない果実」でもあると思っています。 サワーポメロは「酸っぱい果実」というイメージを持たれがち。 でも、その多くは食べ方やタイミングの問題だったりします。 例えば、薄皮を剥かずに食べてしまうこと。 例えば、収穫時期ではないタイミングで出回っているものを食べてしまうこと。 例えば、十分に熟成する前に食べてしまうこと。 ちゃんと薄皮を剥き、時期を理解し、しっかり寝かせてから食べる。 そうすると、驚くほど爽やかで美味しい果実になります。 実際、熱狂的なファンも多い果実だと感じています。 そしてサワーポメロには、もうひとつの楽しみ方があります。 それは、食べるまでの時間も楽しめることです。 サワーポメロはとても大きな果実で、特徴的な色をしています。 部屋に置いておくだけで、なかなかの存在感があります。 我が家では、キッチンの見えるところに置いています。 まるで季節の花を飾るように。 しばらく置いていると、熟成が進み、だんだんと甘い香りが立ってきます。 息子がそのサワーポメロを手に取り、 「食べごろかなぁ?」と香りを嗅ぐ。 そんなやり取りも、なんだか嬉しいコミュニケーション。 いちき串木野市では、親が子どもにサワーポメロを剥いてあげる、という話もよく聞きます。 皮を剥くのが少し面倒な果実でもありますが、見方を変えれば、それだけ家族の記憶に残る果実でもあるのだと思います。 サワーポメロの収穫時期は、晩冬。 だいたい1月中旬から2月下旬ごろです。 そこからたっぷり寝かせて、春を感じ始める3月に食べる。 まさに春を待つ果実だと思います。 この一連のストーリーが、もっと伝わってほしい。 いつもそう思っています。 サワーポメロの木が植えられてから、もう50年以上が経つそうです。 それでもまだ、認知度や楽しみ方は十分に伝わっているとは言えません。 庭木で採れることもあり、「もらう果実」というイメージも強いかもしれません。 ですが、農家さんが本気で作るサワーポメロは、やはり違います。 適切な時期に、適切な食べ方で、きちんと価値が伝わる。 そんな認識のもとで選ばれ、食べられる果...

共感の顔をしたカットイン

先日、とある方へのヒアリングの場に参加しました。 私以外にも数名がいて、初めてお会いする方もいました。 ヒアリングが始まり、少しずつ場の空気や会話の流れが見えてきます。 その中で、少しモヤモヤする出来事が・・・ こちらが質問を投げかける。 それに対して、ヒアリング対象の方が丁寧に答えてくださる。 話を聞いていると、「もう少し深く聞けそうだな」という瞬間が・・・ そんな時に、別の方がカットインしてくるのです。 話に対して共感を示しながら、 「わかります」「そうですよね」と言いながら、 その流れで自分の情報や経験を挟み込んでくる。 共感しているのだから、悪いことではないはず。 むしろ場を盛り上げようとしているのかもしれません。 ただ、そのたびに、 聴きたかった話の筋が少しずつ逸れていきます。 そしてまた質問。 そしてまたカットイン。 その繰り返しでした。 「カットインしないでください」と言うのも野暮な話。 場としては成立していましたし、決して悪い雰囲気ではありませんでした。 ただ、終わった後に思ったのです。 「もっと聞けたはずだったな」と。 あの瞬間、もう少し軌道修正できたかもしれない。 そう考えると、少し反省も残りました。 ヒアリングが終わった後、この出来事についてAIと対話してみました。 そこで出てきた言葉が「自己投影型共感」です。 相手に共感しているようでいて、 実はその共感をきっかけに自分の話へと接続していく。 もしかすると、その方は認められたかったのかもしれません。 承認欲求の一つの表れだったのかな、とも思いました。 共感自体はとても大切なものです。 けれど、場によっては「聴くこと」に徹することのほうが大事なこともあります。 今回の経験を通して、 自分自身も場の流れをもう少し丁寧に整えられるようになりたいと思いました。 次は、もう少し良い時間にできるように。

一字ずつ、世界を読んでいく

  最近、息子がひらがなを覚え始めました。 まだ音と文字が一致しているわけではなく、 見たことはあるけれど、すぐには読めない。 そんな段階です。 先日、保育園からクイズが載ったチラシを持って帰ってきました。 読んで欲しいと頼まれたのですが、「自分で読んでみな」と促してみました。 妻が、ひらがなを覚えるおもちゃを使ってみたらどうかと息子に提案しました。 ボタンを押すと、文字の音を読み上げてくれるおもちゃです。 息子はそのおもちゃとチラシを睨めっこしながら、 一字一字、音を確かめながら読み始めました。 「み」 「ど」 「り」 「の」 「く」 「だ」 「も」 「の」 そんなふうに、ゆっくり、確実に。 時間はかかりましたが、 少しずつ言葉がつながり、文章になり、 やがてクイズの意味が見えてきました。 そして、なんと全問正解。 本人は大きくはしゃぐわけでもなく、 でも満足そうな表情をしていました。 一字ずつ、世界を読んでいく。 そんな姿に、息子の成長を感じたひとときでした。

沿道に立ったら思いのほか楽しかった話

先週の日曜日、鹿児島マラソンに参加しました! 沿道応援に。笑 引っ越しをしたこともあって、マラソンコースがぐっと近くなりました。 知り合いが走るということもあり、「せっかくだし行ってみるか」と軽い気持ちで向かいました。 正直に言うと、これまで駅伝やマラソンの沿道応援に行く人の気持ちがよくわかりませんでした。 テレビで見る分には盛り上がるけれど、わざわざ現地で立ち続けるってどうなんだろう、と。 でも、行ってみると、思いのほか楽しかった!笑 仮装して走っている人に声をかけると、笑顔で応えてくれる。 苦しそうな表情のランナーに「がんばれー!」と声をかけると、軽く手を上げてくれる。 そのやりとりが、妙にうれしい。 走っているのは向こうなのに、 なぜかこちらが元気をもらっている感覚がありました。 想像以上にランナーの数が多く、しかも当然ながら走っているので、 結局、知り合いは見つけられませんでした。笑 最後のランナーを見送ってから、図書館に立ち寄り、 そのあと近所にできたクッキー屋さんに寄って帰りました。 なんてことのない一日ですが、 なんだかいい休日でした。 沿道に立つという、これまで自分が選ばなかった行動。 やってみると、ちゃんと景色が変わるものだなと思いました。

今日もどっかでニッチな対決

先月、息子と一緒に見ていた「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」が、ついに最終回を迎えました。 戦隊シリーズ50周年という節目の年。 そして、この作品が「最後の戦隊シリーズ」になるという話もあり、どこか特別な空気をまとった作品でした。 ちょうどこの一年は、息子の転園のタイミングとも重なっていました。 環境が変わり、登園にネガティブになっていた時期。 園庭の隅でうずくまり、小さくなっている息子の姿を見たとき、胸がキュッとなったことを覚えています。 そんな朝、車の中でかけていたのがゴジュウジャーのテーマソングでした。 歌詞にある 「今日もどっかでニッチなショウダウン(対決)」 そのフレーズが、不思議と現実とリンクしました。 ヒーローの戦いは派手ですが、息子の戦いは小さなものです。 それでも本人にとっては全力の対決。 園の門をくぐること。 教室に入ること。 先生に挨拶すること。 それは確かに、「ニッチなショウダウン」でした。 テーマソングを息子と歌いながら、力を振り絞って登園してくれていたあの日々。 背中を押してくれる音楽でした。 このシリーズでは、過去の戦隊ヒーローたちも登場しました。 私が子どもの頃に夢中になった、カクレンジャー、ダイレンジャー、ジュウレンジャー。 画面に映った瞬間、思わず胸が熱くなりました。 息子と並んで戦隊を見ながら、自分の少年時代とも再会する。 50周年という時間の厚みを、少し実感した気がします。 ゴジュウジャーは、ただのテレビ番組ではなく、 息子の一年と重なった、思い入れのある作品になりました。 ヒーローは画面の中にいるけれど、 毎朝小さな対決に向き合っていた息子も、立派なヒーローでした。 戦隊シリーズ、ありがとう。 今日もどこかで、誰かがニッチな対決をしている。 きっとそれは、思っている以上に尊い気がします。

桃太郎だって行間で戦っていたのかも。

  先日、息子が借りてきた、五味太郎さんの『だれでも知っている あの有名なももたろう』を読みました。 有名な桃太郎のストーリーの「見えていないところ」を描き直した絵本です。 読んでみると、その裏側を想像する行為そのものがとても刺激的で、物語の見え方が一気に変わりました。 描かれていない部分にどれだけ想像を巡らせるか。 誰もが知っている物語を、どう読み替えるか。 そうした行為こそが、クリエイティビティなのだと感じます。 大学時代、設計の授業で ラーメンズの「風と桶に関する幾つかの考察」 を見るようにと言われたことがあります。 「風が吹けば桶屋が儲かる」という慣用句をもとに、因果関係を何パターンも描き変えるコントです。 同じ素材でも、つなぎ方次第でまったく別のストーリーになる。 その柔軟な視点は、今思い返しても鮮やかでした。 こうした「見えていない部分を読む力」は、地域づくりにも深く関係していると思っています。 地域の表面には、数字や課題や成功事例が並びます。 けれど、本当に動かしているのは、その裏側にある関係性や、気づかれずに眠っている価値だと思います。 そこに想像を巡らせられるかどうかで、地域のストーリーは大きく変わります。 どこにでもありそうな地域で、 たまたま出会った人たちと、 地域を好転させるストーリーをどう描けるか。 成功事例をそのまま当てはめ、受け止めるのではなく、 行間を読み、背景を理解し、自分たちの物語を再編集していく。 その積み重ねこそが、地域を変えていく力につながると感じます。 地域づくりに求められるクリエイティビティは、 派手さではなく、見えていない部分に想像(創造)を差し込む力。 そして、その「読み取ったもの」をストーリーとして編んでいく力なのだと思います。

新年あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。 今年の年末年始は、義理の実家でゆっくりと過ごしました。 紅白歌合戦を見たり、箱根駅伝を眺めたり。 いかにも正月らしい時間だったと思います。 紅白では、矢沢永吉さんのパフォーマンスが印象に残りました。 年齢を感じさせないエネルギーと、あの佇まい。 見ていて、素直に元気と勇気をもらいました。 今年はロックで行こうかな、と思ったり。……知らんけど。 先日、今年最初のラジオには、占星術師の方をゲストにお迎えしました。 その方のお話で印象的だったのが、「2026年は本音で生きる人が報われる年」という言葉です。 何をもって“本音で生きる”のかは簡単ではありませんが、自分は本音で生きていけているのだろうか、と我に返るきっかけになりました。 日頃から、自分と向き合うことは意識しています。 それでも、忙しさや役割に流されてしまうことも少なくありません。 だからこそ、今年はより丁寧に、自分の声を聞きながら過ごせる一年にしたいと思っています。 振り返ると、ここ数年は「土台をつくる時間」だったように感じます。 試行錯誤しながら、積み重ねてきたものが、少しずつ形になってきた感覚もあります。 今年は、その土台をベースに、無理なく、でも確実に伸ばしていける一年にしたいところです。 焦らず、誤魔化さず、等身大で。 そんな一年にしていければと思います。 改めまして、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ノイズと、創造性

最近、YouTubeなどでデザイナーズマンションを内見する動画を目にすることが増えました。 建築の専門知識がなくても、誰もがデザインを身近に感じられる点では面白い現象です。 けれど一方で、そうした動画が「ネタ」として消費され、クリエイターの挑戦を揶揄するような空気を生んでいることに、少し怖さも感じます。 上記の内見動画もそうですが、「快適さ」や「使いやすさ」だけを価値の基準とする社会の流れがあるように思います。 それ自体は悪いことではありませんが、便利さが正義になりすぎると、創造の余白が失われていくのではないかなと思えてしまいます。 私は、創造性の余白は、人が感じる違和感や居心地の悪さにもあって、そういう感覚もノイズではあるけれど、大事なものだと考えています。 なので、社会が「ノイズのない状態」へと進んでいるのではないかと少し不安に、、、 ノイズが消える社会の行き着く先 もし、あらゆるノイズが排除されていけば、世界はどんどん滑らかで、安全で、整っていきます。 けれどその先にあるのは、驚きや感動が起こらない“静かな絶望”かもしれません。 リスクを取る人が減り、挑戦が笑われ、新しい表現が生まれにくくなる。 そして、人々の想像力は徐々に退化していく。 社会全体が「正解の形」をしていながら、どこか息苦しく、何かが足りない――そんな未来がぼんやりと見えてきます。 この流れは、生成AIの広がりにも重なります。 AIは圧倒的なスピードで「整った正解」をつくります。 その精度と便利さは素晴らしいものですが、同時に「間」や「ためらい」といった文化的な美しさを削り取ってしまう。 日本の「粋」や「風情」は、言葉にしない余韻や、あえて外す間合いに宿っていました。 AIが整えすぎるほど、そうした「ゆらぎ」が消えていく。 では、人間はどうすればいいのでしょうか。 おそらく、AIを「正解を出す道具」ではなく、自分の感覚を確かめるための「鏡」として使うことが鍵。 AIが整えたものを見て、「自分ならどこを崩すか」を選ぶ。 それこそが、これからの創造のかたちなのかもしれません。 クリエイティブとは、ノイズを設計すること 本来、デザインや建築、文章などの表現行為は、「秩序とノイズの配分」だと言えます。 完全に整うと退屈で、崩しすぎると伝わらない。 その“ちょうどよいズレ”を見つけるのが、作者の仕事です。...

「モモ」とファシリテーション

先日、ご依頼をいただき、自治体関係職員向けにファシリテーション研修を実施しました。 これまでの経験を活かしながら構成しましたが、少し盛り込みすぎたかもしれません。 それでも、自分自身がファシリテーションについてじっくり考える貴重な時間になりました。 最近、息子の寝かしつけの時間に、ミヒャエル・エンデ著『モモ』を読み聞かせしています。 (理解出来ているかどうかはわかりません。笑) 言わずと知れた名作ですが、改めて読むと、ファシリテーションに通じる要素が多くあることに気づかされます。 主人公・モモの特技は「傾聴」です。 モモは、人の声に耳を傾けます。 そして、彼女が何かを“する”わけでもないのに、話した人たちは次第に自分の中で答えを見つけ、問題が解決していきます。 まさにファシリテーターの姿そのものです。 ただし、この傾聴には時間がかかります。 (しばしばファシリテーションやワークショップのデメリットで言われる点と重なります。) モモの世界では、その「時間」を奪う存在として“時間泥棒”が登場します。 人が効率や成果を求めすぎるあまり、大切な対話の時間を手放していく。 この構図は、現代の私たちにも重なります。 ファシリテーションとは、意見を引き出し、整理し、まとめていく技術であると同時に、 “人が考える時間”を支える営みでもあるのだと思います。 モモのように相手の声に耳を傾けること。 そして、その沈黙を恐れず、時間を共にすること。 それが本来のファシリテーターの姿なのかもしれません。

木削り

最近、趣味を模索しています。 歳を重ねるごとに、安定思考になり、失敗したくない気持ちが強くなった気がします。 そんなことを先日友人にも指摘されて、30代最後の年に「これから続けられる趣味」を見つけようと思っています。 そんなこんなで、木を削りはじめています。 なぜ木削りなのか。 前職の頃に参加した「ヨウさんの木削り教室」を思い出したから。 とても心地よい時間だった記憶が残るワークショップ。 ヨウさん——本名は滝本ヨウ。 都市計画コンサルタントとして激務を続けるなか、心を病み、不眠症に悩んだ時期があったそう。 そんな時、親友から送られてきた一本の切り出しナイフといくつかの木片が、木削りを始めるきっかけに。 その瞬間、忘れていた少年時代の感覚が蘇ったそうだ。 自然の中で夢中で木を削っていた頃の自分。 それは「頭で考える自分」ではなく、「心と感覚で生きていた自分」との再会だったとヨウさんは語っています。 木削りは、何か用途のあるものを作るわけではなく、 自分で選んだ木と対話しながら、ただ削る。 年輪に沿い、節に出会い、考えながら刃を入れていく。 終わりも自分で決める。 ヤスリをかけて、ワックスを塗ったら完成。 それだけの行為なのに、確かに満たされる。 ヨウさんは言っていた。 「木削りは、木に触れて自然を感じる時間。そして、素直な自分に還る時間。」 彼が大切にしているのは、機械文明ではなく、人の手による“文化”としての暮らし。 自然と人との間にある、ゆるやかな呼吸のような関係だ。 そんなワークショップを思い出して、ふと自分でもやってみはじめました。 ホームセンターで廃材を探し、肥後守を一本購入。 削り始めて小一時間。 特に用途はない。 それでも短い時間の中で、木に愛着が湧いてくる不思議。 削る音と木の香り。 手の中に残る感触。 その小さな積み重ねが、思考をほどいてくれる。 きっと、しばらく続けると思います。

自分にあった1本が選びたい。

  鹿児島県には113の焼酎蔵元があり、銘柄は2000を超えると言われています。 その象徴として思い出すのが、よく行く県庁のロビー。 使われなくなったエスカレーターに、県内の焼酎がずらりと並んでいますが、その前を通るたびに思うんです。 「この違いを全て語れる人は何人いるのだろうか?」  「ここから私に合った一本を、誰が選んでくれるのだろうか?」 焼酎の売り場に立っても、似たような感覚を抱く。  商品ラベルには、力強いロゴや煌びやかな写真、イラストが並ぶ。 けれど、それが自分に合っているかどうかは、まるでわからない。 以前、焼酎の蔵元の方と仕事をする機会があった。そのとき教えてもらったのが、「蒸留方法」「麹」「芋の種類」の組み合わせで焼酎の個性がつくられている、という考え方でした。 とてもわかりやすかったし、それを知ってから、自分に合った焼酎の傾向も少しずつわかるようになってきた。 改めて売り場に立つと、ほとんどの焼酎は、その情報を提供していないことに気づく。 芋の種類と麹の種類が書いてあるものは稀にあるが、蒸留方法について書いてあるラベルにはほとんど出会わない。 (私が自分に合った焼酎を選ぶには、蒸留方法を知ることが何より大事。) そんな中、先日訪れた焼酎の売り場には、なんとポップに蒸留方法が書いてありました。  それだけで歓喜。笑 ラベルに記載できる情報には限りがあるのは理解しているつもりです。  それでも、せめて売り場のポップやプライスカードに、「蒸留方法」「麹の種類」「芋の種類」を記してくれていれば、選びやすさは格段に上がる。 そしてこの考え方—— 蒸留方法 × 麹 × 芋 ——が、もっと広まるべきだと思っています。 こうした売り場が増えてほしい。 私の出身大学では、飲み会文化が盛んだった。 安価な、いわゆる“芋臭い”焼酎(こういうと怒られますが)を何の説明もなく飲まされて、焼酎嫌いになってしまう人がたくさんいました。 こういう“ミスマッチ”をなくすことが、焼酎文化の裾野を広げる上でも、きっと大事だと思っています。

グッバイ親知らず

数年前から、親知らずの存在には気づいていた。 レントゲンにもはっきり写っていたし、「いつかは抜かないといけないな」と思いながら、忙しさと恐怖を言い訳に先延ばしにしていた。 1ヶ月ほど前のある日、突然奥歯に激痛が走った。 親知らずが脳裏をよぎる。 引越ししてからというもの、近所の歯医者には一度も行けておらず、目をつけていた歯科医院に、思わず電話をかけた。 診てもらうと、やはり親知らずが虫歯化していた。 抜くしかないとのこと。 覚悟を決めて、抜歯の日程を決めた。 そして迎えた抜歯当日。 先生から丁寧に説明を受ける。 実は私、体にメスを入れるのは人生初。 麻酔が効いているとはいえ、怖いものは怖い。 治療台の上で、心拍数がどんどん早くなり、鼓動が自分でもわかるほどになる。 いざ処置が始まると、痛みこそないが、ガリガリ、メリメリという音と振動がダイレクトに体に響く。 完全にホラーである。 途中、「口閉じていいですよ」と声をかけられるも、麻酔が効きすぎてうまく閉じられない。 結局、歯科助手さんがやさしく閉じてくれる。 ちょっと恥ずかしい。 そんなこんなで、抜歯は無事終了。 大きなトラブルもなく、処置は完了。 現在は、消毒や薬の服用など、アフターケアの真っ最中である。 一歩大人になった気がした。歯は減ったけど。

解体される家

実家の近所には、血縁以外に私を育ててくれたご近所さんがいる。 通称「きいばぁ」と「しまばぁ」。みんないつも優しかった。 厳格な祖母との対比もあって、よく遊びに行った。 そんな頃も遠い昔。私も40手前になった。 しまばぁは、いつのまにか亡くなっていた。 家族との会話の流れのなかで知った。(教えろよ、と思った。) そして先日、きいばぁは高齢ということもあって、息子さんたちのいる宝塚へ引っ越した。 残されたのは、大工であるきいばぁのご主人が建てた家だけ。 大学で建築を学びたいと思った要因のひとつは、間違いなくきいばぁの家にある。 誰かが家を建てたというストーリーが、身近にあったことが影響していると言える。 きいばぁの家も、住み手がいなくなればただの古い空き家になる。 住み手がいなくなった家が朽ちるのは早い。 そこは潔い性格のきいばぁはさすがで、すぐに解体を決意していた。 そして、先日から解体が始まったそうだ。 母から進捗の様子として写真が送られてくる。 立派な大黒柱、年季の入った土壁。 家財道具のなくなった家は、きいばぁのように潔く、かっこいい。 少しずつ解体される家。 解体の様子がなぜか美しい。 思い出と共に、淋しさが残る。 ひとの家なのに。 諸行無常。 そう言えばそれまでだけど、確かにあの家があり、きいばぁがいて、そこに私の思い出も確かにあった。